やんわりとした解答

夜中によくわからない発想がグチャグチャと出てきたのでなすがままにつぶやいていたんですが、いまから頑張って解読してみたいと思います。

 

 

 

 つぶやいていたときはそこまで発想が飛躍しないけれど、これはどちらかというとポスト構造主義に近い。構造を理解してしまった我々に待っていたのは「どうしようもなく停滞」した世界である。世界は変わらないし、変えられない。そして我々はすでにそれを理解してしまっている。

 実存主義についても少々暴論だ。まず外延する実存(他人)に縛られることをサルトルは認めている。認めたうえで自己を新たな場所へ縛りなおすことができるのが人間のあり方と述べられているので、実際問題、実存主義は「どうしようもない停滞に内在」する事、それ自体がありえない。

 ただし、サルトルの時代と現代で大きく違うのが、世界の大きさである。明らかに現在のほうが「手に取れる世界」が広がっている。「どうしようもない停滞に内在している」という感覚は主にここからきている。

 ふと考えてみるとこの視点は「セカイ系」にそっくりである。急にセカイのために戦う事になるあれ。「どうしようもない停滞」はわりとセカイ系のテンプレートな設定だし、「無力な私たちと世界」という構造も似ている。私たち現代人は、だれもが俯瞰恐怖を持っているのだろう、だからこそアニメや漫画では、恐怖を具体的にして敵とし、主人公に感情移入してしまうのかもしれない。

 

 ウーーーーーン、今日はここまでにしよ、なんにも解決してないけども。

消極的有神論の話(場合分けの暴力)


「神の所在について」なんていう質問をされたら、究極的にそこには二通りの答えしか求められていない。神はいるのかorいないのか。存在するのかしていないのか。
 
 ただし日本人というのは断定がへたくそである。先週から今日にかけてまで友人にこの質問をしてみたのだが、
「神様がいるのかはわからないが、いて欲しいとは思う」
「いないと思うがあらうる自然的な現象に名前をつけるなら、それは神様だろう」
「いたとするなら人間の暮らしはもっと豊かなはずだ」
「いると思うと勇気がわくので、いると信じている」
と、このようなふわふわした返答がつづいた。

 私はこの結果を踏まえ、人の中の神の所在を4パターンに分類することに決めた。いるorいないではラチが明かず面白くもなんともない。
 そこで今回はあるorいないをどんな心的状態で判断をしているかでさらに分けた。次の通り。
 
①自分の中に具体的に神の姿があり、存在を信じる積極的有神論者
②特に祈る対象があるわけではないが、存在を否定することはしない消極的有神論者
③神はいないと断定でき、否定することを厭わない積極的無神論
④神という感覚そのものが希薄であり、神自体の存在の行方がない消極的無神論
の4パターンだ。
 冒頭の友人の返答をもう一度見ていただいてもわかるが、日本人の多くは消極的有神論者or消極的無神論者に該当するだろうと思われる。ごく少数の3番が存在するだろうが、それはおそらく1番と同じぐらい少ない。


 とここまで書き止めておいたのですがもっと簡潔で分かりやすく、資料もしっかりしているサイトがあったので貼っておきます……。現実は無情……。

神的な何かを重んじるが神そのものの存在はよくわからないというのは面白いですね。おおよそ思い描いていたとおりの結果でした。

http://diamond.jp/articles/-/97616