旬の日記です

 

  用事があって少し離れた街にきたけれど、昼と夕方の狭間にある、あの温もりに閉じ込められたくて、喫茶店に入った。たばこのにおいが絶えない、古風な喫茶店。何かが絶えないというのはいいことだ。

サイフォン珈琲だった。ぼくにはあまり馴染みがない。知人曰く、手順を覚えれば誰でも美味しいという。鏡に光が強く当たって、年季の入ったガラス風船にコーヒーが入る。古い木造のテーブルがキシキシと軋む。

  ブレンドは香りが強く出ていた。純度の高い、コーヒーの匂いとしか言えないようなやつだ。涼やかなエチオピアがあり、滑らかなブラジルが包む。それくらいしかわからない。サイフォン式は香りが強く出るのだそうだ。今度淹れてみたい。

  はじめてのチャーリー・プースからは次々と聴き馴染んだ曲が流れる。どこかで聴いた曲、どこかで出会った人たち。窓に映る街並みが流れてく、日が沈む。

「どこか、自分に感動してるんだろうね」

  隣に座った男が言った。耳をすますと世界中には悪口が潜む。けれど西日とたばこに包まれた言葉はどこかに消えていくのだ、決して空間にひずみを作らない。

  消えていく? 僕は思考を止める。なんだが、あの一言に「消えていく」という表現はとても似つかわしくない。ではなんといったらいいのだろうか? 音楽を止めて(We don’t talk anymore we don’t talk anymore)夕方に耽ると、時計が鳴っているのが遠くで聞こえた。

 


  たぶん、そんな言葉は元々存在してなかったのだ。そんな感じだった。存在していないけれど、仕方なく姿をみせた蜃気楼のように、その言葉が心象を覆う、今は16:00。