アニメ愚説

 
 
いつも感じる違和感は、無駄なものの排斥。
 
 
ええと、アニメでも漫画でも、無駄がない会話というのは跳ね返ってそれだけストレスになるという話。現実と擦り合わせ出来ない(あるいは出来すぎる)パーツが入りすぎて、なんだか言いようのない既視感に襲われるのである。
 
 
まず現実をみると、キャラ単体のセリフが噛み合うことなんてかなり稀有なものだ。
「ボルトはやいねえ」
「こいついっつもこのポーズしてんの?」
「あ、それおいしかった」
とこれは我が家の会話であるが、その実各人が言いたいことを空中に放ってるだけなのはすぐわかる。ここに規則性と論理性はなく、会話にはかなりの自由度が存在する。
 
アニメだとこうはいかない。日常パートなるものでさえ、30分の格闘だ。無駄なセリフや、物語の進展を妨げる要素は排除していく必要がでる。自由度が狭まっていく。睡眠後の整理された記憶のように、無駄がない。結果としてどこか画一化された退屈なものができあがる。
 
 
 
立川談志の談話に「俺は絶妙な不快感を目指している」なんてものがあるが、本質的には同じ立ち位置を疎んだだけである。
洗練された落語という1つのコンポーネントを雑多で理解不能な談志の思い付きによって再構成する。聴衆は所謂洗練された(アニメのような)噺を予想しているから、戸惑う。ここに談志は目新しさとカタルシスを感じたわけだ。
 
 
こうはいうものの、では日常系アニメがほんとうにつまらなくて今にも凋落する時期にあるかと言えば全く違う。むしろ増加する勢いだ。それだけの需要がまだ存在する。
 
 
けれど、供給源の作り手は悩む。
既視感の根本的な解決はなかなか難しい。30分アニメという制約上あまりに軸がブレる発言は出来ない。
 
どうすればいいのか、答えはシンプルで背景を変えるのである。
どこからどこまでを日常の枠に括るかは各人にお任せするとして、立てているのはキャラクターではなく「背景」であろう。
 
 
「わたしたちが生み出しているのはいまにも動きだす人物ではなくて、勝手に動いてくれる装置なのです」とか。誰の言葉か忘れたけれど。
 
 
 
でもやっぱり根本治療にはならないのだ。
このごろ、アニメを見て辟易することがある。テンプレートのせめぎ合いと、余りにも動くキャラクターに。
背景を立てすぎて、非日常の域に達するのもよろしくない。カツカレー感がある。モンスター娘のいる日常?なるほどね。
 
 
そんなわけで、キルミーベイベーは神。