恐ろしく自分語り

 

なにか書きたいなと思うときほど話題って見つからないもので、ではここで視点を入れ替えると、頭の中でなにか書いているうちはいいんだけど何も無くなったときに、ようやく書こうって思いはじめるんだろう、なんて考えも出てくる。おや、卵と鶏はどっちがさきなんだろう。少なくとも僕の話です。

 

特におもしろいこともなくて、ぼんやりと日々を生きるのがこんなにも簡単なのが問題だろう、と現実にツッコミと不満をもらしたくはある。なので、適当に文を書く。秋の何気ない優しさに触れるとなんだか大体の事は許されそうであり、まあ特に更新する予定のないブログを、何も練られてない駄文で汚すのも悪くないかな、といった次第です。

 

とはいえ何にもしないで生きているのか、いやいやそうではない。今週だってバイトと学校で忙しくしてるし、その中でひとつやふたつ小笑い程度は起こっているはず。だいたいの物事は切り取ればなんだか面白く見えるものであり、SNS類はそういう需要の塊なんだろうから、どちらかというとぼく個人の住み分けなんだろう。ネットでこれを話したい、これはリアルで話したい。ふさわしい話題が多分知らぬ間に設定されているんでしょう。

 

とりわけネット関連の事では、なんだか安易な振る舞いはしたくない。ネットに使われる(それが如何に婉曲的と云えども)のは負けた気がする。MVや曲は絶対最初から最後まで通しで見る、聞くようにしている。アニメや映画などは極力借りる。CDの趣味はないので、買ったりはしないが。それでも、アニメのオーディオコメンタリーや監督の一言があるだけで世界が変わるものだ。そういう選別を乗り越える粋さも、これからの時代大事になるんだろう。

 

無駄を省く恐ろしさを、やけに意識している。暗黙知という言葉、知っているだろうか。

 

 

 

 

暗黙知とは「知識というものがあるとすると、その背後には必ず暗黙の次元の「知る」という動作がある」ということを示した概念である。この意味では「暗黙に知ること」と訳したほうがよい。


たとえば自転車に乗る場合、人は一度乗り方を覚えると年月を経ても乗り方を忘れない。自転車を乗りこなすには数々の難しい技術があるのにもかかわらず、である。

そしてその乗りかたを人に言葉で説明するのは困難である。つまり人の身体には、明示的には意識化されないものの、暗黙のうちに複雑な制御を実行する過程が常に作動しており、自転車の制御を可能にしている。

 


それゆえ知識から人間的要因を「恣意的」として排除しようとすると、決して操作に還元しえない「知る」という暗黙の過程をも否定することになり、知識そのものを破壊してしまう。「暗黙知」を単純に「語り得ない知識」と同一視することが広く行われているが、これは安冨歩が指摘したように誤解である。

 

 

 

 このごろホリエモンが、ラーメン作るのに何年も修行するのはアホ、的な発言をしたがまあ一方向から見ればなにも間違っていないと思う。けれどそれは"人生に価値がある"と判断しているからこその発言であり、同意はできない。

個人的には"人生は等しく無価値だからこそ無駄だらけで美しい"と童貞の如くイマジンしている。そこに、知識の本物があればいいなあとなんとなく感じるのである。

 

 

 

従来の日本企業には、職員が有するコツやカン、ノウハウなどの「暗黙知」が組織内で代々受け継がれていく企業風土・企業文化を有していた。

そうした暗黙知の共有・継承が日本企業の「強み」でもあった。しかし合併・事業統合・事業譲渡・人員削減など経営環境は激しく変化している。

 

加えてマンパワーも派遣労働の常態化、短時間労働者の増加、早期戦力化の必要性など雇用慣行の変化により「同一の企業文化の中で育ったほぼ均等な能力を持つ職員が継承していく」といった前提は崩れつつある。

このため現場任せで自然継承を待つだけでなく「形式知」化していくことが必要とされる。その方法として文章・図・表・マニュアルなどがある。

 


こうした「形式知」化はナレッジマネジメントの目的の一つとしている。すなわち個人の有する非言語情報はそのままでは共有しにくいので、明文化・理論化し、知識の共有化を進めていこうという論法である。

情報システムはそうした形式知化・共有化に貢献しうるのではないかとされている。

 


しかし形式知化しようとすると、漠然とした表現かつ膨大なデータ量となり、検索が困難で共有化が難しいとの指摘がなされている。ただ近年、形式的・分析的な管理手法が企業を席巻するなか、暗黙の次元の重要性を経営者に意識させた効果があったとされる。

 

 

 

 

簡単に、安易に手に入る状況だから、逆にすこしだけ楽をしないでみる。こんな時代にシニカルにアジャスト?