映画 ヘルタースケルター 感想

 

一文目が出ない。こういう作品をいくつか知っている、例えば新世紀エヴァンゲリオン旧劇場版。近い感覚であった。


「ネタバレあり」だとかそんな風に明記をしなかったのは、正直内容を知っていたところで「見てみないと何も始まらないタイプの作品である」という私の確信めいた読後感?によるものだ。
アスカが量産型に喰われるシーンを、ミサトの「大人のキスよ、帰ったら続きをしましょう」を旧劇を見てもいない人に熱弁したって伝わらないのだ。圧倒的な熱量で画面から現実に侵攻してくる名称し難きそれらを享受するしかない。いくら言葉を紡いでみたところで薄っぺらいなにかを生み出すだけだ。

 


こうなってしまうと私ができることといえば、
①いま向き合っている「ヘルタースケルター 感想」なるテキストファイルを即刻削除し、Twitterで「ヘルタースケルター面白かった!ヤバい!」と一言呟いて視聴済みの友達と仲良く感想オナニーする
②胸の内に留め、忘れたふりをする
③無理なのを知りつつやれるだけ無難にならないように足掻いて書く

これぐらいだろう。③がいいって?しかたないなあ。

 

 

やるだけやってみると息巻いても表面的な解説なんて誰かがもうやっている。「映像美」「沢尻エリカやべえ」「長い」「やりたいようにやっただけだろ」「好みが分かれる」…
アマゾンレビューをみても大方こんな風である。私にできることは少ない。

 

一応抑えると、映像美については監督蜷川実花の賜物であろう。浮世離れしたセットと鮮やかな色使い。不気味さと妖艶さを同時にこなした舞台装置は作品の全体を内包しつつアクセントとなっている。

 

沢尻エリカは熱演だった。というかもう、エリカ様にしかできないんじゃないか、そこまで自らを落とし込んでいた。役者魂を感じた。
今回私の中で誰の評価が一番あがったかと問われると間違いなく沢尻である。世に言う「別に…」とかそんなのもうどうでもよくなった。ああそっか、あなたは役者だ、仕方ない。周りがバカに見えて仕方ない時もあるでしょう、よくやってくれた、あなたの清き魂はこのフィルムの中で永遠に輝いている、なにがあっても気にするな、頑張れ、わかる人はわかってるさ。目の前に彼女が存在したら真っ先にそう声をかけよう。

 

長い、確かである。長すぎる。何回もまだ続くんかい!とツッコミをいれた。好きなようにやったんだな、本気でそう思った。
ここから生まれる好みの分かれは、世界観を受け入れられるかどうかと直結している。嫌な人はすぐに根を上げる。でもね、これに限って言えば「好き嫌い」のフィールドに入った時点で負けでしょう。心の底から1をつけたくなる作品なのだ。これに1をつけるのはとても容易い。ぶつ切りのストーリー、長すぎる意味のないカット、訳のわからんセリフ、その他もろもろ。

 

いかんせんエネルギーをもらうだけもらってうまく吐き出せない。緊張と緩和の緩和が丸ごと抜けている。

 

 

私が開始5分で思ったことは「あ、これ絶対監督女だ」だった。そのときは監督も出演一覧もなにも知らず、人に「オススメだから!」と言われるがままに観ていた。
カット割り、色彩、ストーリー展開、どれをとっても男じゃありえないのだ。


『全身を整形した女の話』ここまでなら男でも考え付くだろう。だけどもこの物語の根幹は『全身を整形してしまうほどの女が為す倒錯した自己表現』である。これは、男には書けない。


女性必見!と銘打って封切りされたはずの今作であるが、私はどちらかというと世の男性諸君に観ていただきたい。谷崎潤一郎の文学に似た耽美主義と女性主義のマゾヒズムを感じ、直ちに沢尻エリカの靴を舐めたいと思うこと請け合いである。

 

とにかくエネルギーの塊だった。おもいっきりバットで殴られた気分だ。最近綿密に仕組んで毒を盛っていく計画的犯行ばかり観ていた所為か、これは堪えた。


恐ろしいことにランダムに変化する主人公のワガママ極まりない自己表現と、現実にはありえない舞台のワガママと、監督のあれもほしいこれもほしいのワガママと、そういうもの暴力的なもので積み上げられたこの作品はフラフラになりながらも形を崩さず成立している。

 


ヘルタースケルター、面白い映画だった。

 

 

ヘルタースケルター

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