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蕾ではなく、葉たち

日々

 


20才。20才になったら変わろうと思っていた。そうはならなかった。
スガシカオの『19才』という曲がある。Mr.Childrenの桜井はこの曲がラジオで流れた時からスガシカオのファンらしい。×××HOLICと合わせて、僕の一部。

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の20才は大人への一歩とならなかった。むしろ精神の幼稚さと成長のパラドクスに犯されたやばいやつだった。社会的「20才」は思うほど僕を縛った。僕の心はいつまでも19才のままで、その剥離は長く続いた。肉体的「17才」で感じていた「19才」的熱情は未来という免罪符のもと青春へ昇華された。しかし、今はどうだ。この先になにがある。


認欲とプライドの狭間で揺れるうち、一時期なにもできなくなった。鬱とか、自律神経とか、そういう言葉でごまかすわけにはいかなかった。あれは究極的な意味で、自己の保存欲求だった。
僕は多分、そのままで評価されたかったのだ。そのまま変化せず評価されて、変わりたくなかった。サナギのままのクロアゲハに、僕はなりたかった。


くはここにいてもいいんだーー自己の精神において諦観と神を見出した碇シンジは「ここにいてもいい」だけだった。自らの価値に言及すると彼は壊れてしまう。エヴァパイロットという名目のもと、急激に値上がりをした彼自身の付加価値は、背負いきれないプレッシャーとなって精神の世界へと彼を誘った。彼は「存在する価値があった」人間なのだ。だから「ここにいてもいい」だけで話を終えるべきなのだ。

転じて存在に価値がない僕はどうであろう。自己のゼロ次元的な肯定、宗教観をもたない人間にとって、他人を意に介さず生きることは困難だ。どこまでいっても自分の隅に他人の思考が隠れている。

 

えはまだない。そりゃそうだ。孔子は齢40で不惑を唱える。私の倍生きた、世界の思想家でさえ40までは迷っていて、他人を意に介していたのだ。ああ、なんてばからしい。

 

迷うのは、迷ううちは、青春さワトソン君。そういう気持ちで今は生きている。

 

今週のお題「20歳」