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21世紀思想の私的見解

おきなきゃ論考 頑張ったオススメ記事

 

 

 昨日の言葉について一つ訂正というか弁解なんですけど、一つ目としてインスタントに切れてるんであってインスタントを求める人々をぶっ殺したいわけではないということ。ビンタぐらいはしてやりたいですけどね。

 もう一つ、そのうちちゃんとしたものを上げるので(たぶん)今はわかる人だけわかってくれ〜っていう説明というか個人的な現代の停滞についての見解を書きます。ごっちゃのなか整理しない脳を仕方なくアウトプットしたので、脈絡はギリです。たぶん伝わる人には伝わると思います。というか伝わって共感があれば泣くほど嬉しいです。また批判も嬉しいです。この分野不勉強すぎます。

 インスタント性は資本主義を抱える上でどうしても到達しなきゃいけない場所であったはずで、弁証法とか、富の貯蓄を許したカルヴァンとか、いろいろ責任の所在をつくることはできると思うんですが、そういう時代に適応したものが出てきただけの話であって別に原始キリスト教の時代から資本主義の芽はあったでしょう。資本主義は生存欲求の結果です。

 だからこその話として、資本主義すなわち近代を現代は内包してるのに、ポストモダンとか片腹大激痛です。このシステムと心の不足から逃れるためにはどうしても各個人的な解脱が必要となります。分かってるでしょうが文字通りの解脱ではなく、心意気の問題です。 


 まず階級的なアイデンティティの消失による所在の不安。日本も外国も昔は桶は桶屋でした。刀鍛冶の息子は刀鍛冶で、そういう意味でアイデンティティは揺るがなかった。近代がぶっ壊しましたけどね。

 これはレットビーなキリスト的精神でどうにかなります。「私は誰?」「貴方は神の子供よ」を平然と言える向こうの人々は素直にすごいと思います。だからこそアメリカは資本主義の波の中ですら自殺率がそこまで高くないのだし、資本主義に飲まれた韓国日本アジアアフリカ諸国は自殺率が異様に高いのでしょう。中国は徹底した身内主義の結果コミュニティーが壊れていません。これもすごいところですよね。あいつらはもともと解脱してんすよ、要するに。空気を見る僕らには無理ゲー。
 まあ資本主義にはもともとキリスト教がふくまれていて、適応できなかった国は間違いなく自殺率が高いと、そんな感じです。
 日本人は所謂「母なるキリスト」に対してものすごく耐性がないので所得で階級アイデンティティを作ろうとしてるわけです。いや、昔はあったのかもしれませんけど少なくとも今はないでしょう。

 

 次に思想としての不安です。
 存在神秘とか、自然一元論への回帰を望んだポストモダンですが現代が近代の延長にある以上資本主義から逃れられないですし、どうしたって精神より金だ!!!!働け!!!!ってなります(日本は顕著)。「私はお金より心だ」なんてのはきれいごとで、人はいざ餓死しそうになったら間違いなく盗むぐらいやります。
 断っておくと、存在神秘は正しいんですよ。「存在の無根拠性」に気づいて「うわ!!生きてるってやばい!!!」ってなればいいんですよ。でも残念ながら全人類がそんなことできるわけがない。ハイデガーも三回死にかけてやっとですからね。全人類がならなかったからこそハイデガーナチス加担しますし、結局「我が人生最大の失敗」っていうんですよ。
 逆にマイナスに働いた「存在の無根拠性」はニヒリズムを生んでしまいます。これはよろしくない。というか生まれまくってます。どうしよう。
余談ですけど、今だからこそ思想としての、哲学としてのニヒリズム研究は大事ですよね、たぶん。一考の余地がありまくりです。

 「実存は本質に先立つ」が、昨日の更新したときに言われるだろうなあと予期していた反論のひとつなんですが、どっちも大事だろおいってぼくは思います。誰だか忘れましたけど「本質とは、そこにあるものである」とかいってるやつがいてその意見にぼくは賛成です。唯物論と観念論の普遍戦争をもう一度やる気はありません。

 

 現代は「大きな物語の終焉」とよく言われます。サブカルにしてもネットにしても階級にしても思想の専門化にしてもなんにしても小さな物語が始まっているのは間違いなくて、それはそうでしょう。
 でもやっぱり資本主義っていう近代性を持ってる以上どこかに「大きな物語」をもとめてしまうパラドクスがあるんですよね。安倍首相もトランプも橋本もそうだと思います。というか、やっぱり「大きな物語」がないと停滞をしてしまうんですよ、資本主義は。
 そういう意味で戦争にならないうちに一回やっとけってぼくは思いますね。ガス抜きしてかないとって。


 ここで、「じゃ〜おっきな物語つくるかwwwww」ってなるのは簡単です。でもね、僕たちは大きな物語の結果おこる二回の大戦を見てしまっている。人間は賢くない。これはどうしようもない停滞ですよね。システムが殺しにかかってます。
現代というか21世紀をぼくなりにみたらこんな感じ。

 自然一元論は資本主義があるからだめ、「大きな物語」も作ると危ない。これをぼくは「俯瞰恐怖」と呼ぶことにします。ネットでもなんでも僕たちは大体のことに対して俯瞰できるようになってしまった。そして、物事には永遠によくなる方法など一切ないと足を竦ませているわけです。しかも、俯瞰恐怖ですら俯瞰できて、よろしくないとわかってしまっている。

 さあ、思想の不安の解消をどこにもってこようかな〜と僕たちがさまよっている歩くなかで、ひとつ光があります。東洋哲学です。いまむこうでは日本的思想が結構人気です。「禅の心」だったり「モッタイナイ」だったり。悪くないと思います。「俯瞰恐怖」からの脱却として非常に正しい。自然に生きる、という哲学は俯瞰されるだけだった世界がにわかにこちらに近づいてきます。

 自然に生きよう、楽に生きよう。確かに悪くないんです。ぼくはこれをキリスト教の下地があるむこうの奴らがやるぶんには悪くないんだと思います。まあ嗜好品だもの。例えばむこうの奴らが禅の心『知足』を「ああ〜キリストも元はこういうこといってたんだろうなあ!」と考えるのはいいと思います。これは間違いなく原始キリスト教への回帰だし、存在神秘の哲学です。禅を媒介にしているとはいえ、その得た「解脱感」に大差はないでしょう。ハイデガーが禅を好んでいたことは有名です。

 だけども、これをそのまま日本人が受け取って「東洋哲学やばい、日本すごい!!」ってなるのはどうなんでしょうか。ぼくはあんまりにも危険だと感じます。

 理由の一つ目として、まずやっぱり資本主義はキリストを内包しているのですから、そこを蔑ろにするのはどうなのかって部分です。別にキリシタンになれとか、アーメンって唱えろというわけじゃない。思想的に噛み合っているならキリストじゃなくたって構いませんし、学問として知っておくぐらいでいい。

 二つ目として、東洋の哲学にはとても危険すぎる落とし穴があります。それは「無関心性」です。
 楽に生きよう、ナチュラルに生きようの心を下手に裏返すと「他人にさほど興味をもたない」に転換されてしまいます。危なすぎる。日本でも結構ありませんか、そういう節。
 第二次世界大戦後の軍事裁判で、ドイツ人は笑い、日本人は泣いたそうです。つまりドイツ人は自らの行いに対して覚悟ができていて、甘んじて受け入れた。日本人は「なんでだよ!!俺たち正しいことしたんじゃないのかよ天皇!!」そういうわけです。無関心の賜物でしょう。


 重ねていうけど、決して日本が嫌いとか、キリストはすごいとか、そんなことをいってるんじゃない。東洋哲学も学ぶのはいいことだし、この国の人は素晴らしいし、外国には是非学んでいただきたい。誇ってもいい。けども、日本人も向こうを学ぶべきだなと感じるんです。

 思想としての不安は、向こうはこっちを学ぶ、こっちは向こうを学ぶの相互作用で、いまのところすこしは解決できるんじゃないかと、そういう風に考えてます。

 


よくわからない着地点でした、反省してます。意外と筆がのりました。