Anything will be fine.

 

 今日は朝に起きて、ランニングに出かけた。僕は先日Apple Watchを地面に落として粉砕してしまい、二度と電化製品なんて買うものかと心に決めたのだけれど、走るときに音楽がないと苦痛でいろんなことを考えてしまう……。中学も高校もわりと走るのが好きだった。これはグランパの血筋らしく、彼も中距離が得意だったそうだ。いままで親族には短距離が得意な人しかいないので、自分の中距離の速さはどこからきたんだろうと、その話を聞くまでずっと疑問だった。そういったことをランニングをしながら思い出した。ランニング中はどうでもいいことと、至極大事っぽく見えることに頭がゆく。呼吸が乱れていき、酸素がたりなくなると、どうでもいいことが突如とんでもない発見になったりもする。悔しいことに、走ることと書くことは相性がよい。(村上春樹か?)

 はじめてグランパと会った中学生のとき、僕にとって突如現れた三人目の祖父だった。中学生の僕が初対面の方を「おじいちゃん」と呼ぶのはなかなか難しくて、「グランパ」と照れ隠しで呼んだ。それが妙にしっくりきて、いまでも家族でグランパと呼んでいる。他人から見ればあまり盛り上がれないエピソードだけど、けど僕はこの話をするのが好きだ。祖父がもう一人できること、孫がもう一人増えることは、どう転んでもハッピーだからなんだろう。僕は彼に何もする必要はなかっただろうし、彼も僕に何かを期待なんてしていなかった。可愛がり、可愛がられるだけの関係。彼が好きだったショートケーキをいつの間にか食べなくなり、あまり動かなくなったときは少し心が揺らいだけれど、はじめて会ったときから物心ついていて「この人は遠くない未来にいなくなるのだ」とどこかで予想していたので、そんなに辛くなかった。

 お葬式は静かだった。グランパは少しだけ有名人だったようで、たくさんの花が届いていた。帰りの車は夜をゆっくりと走り、すすきのぐらいで、少しだけ泣いた。

 僕はグランパを思い出そうとしたことはない。ただ、彼を思い出すときはある。イチゴのショートケーキを見たとき、ニッカの看板を見つけたとき、そして、ランニングをしたとき。僕はそのたび幸せになるのだ。たぶん、僕にたくさんの幸せをくれた人だった。