徒然草生える

 

特段書きたいこともないだけど文章は作りたい微妙なお年頃でぼくの自己顕示欲もここまできたかと頭を悩ませる日々だが、ふと過去に目を向けると「なんとなく何も考えないでも楽しかった」程度にしか記憶がない。

ディテールまで把握している幼稚園の記憶なぞ全くなく、中学校ですらかなり怪しいものだ。何か嫌なことあったぞ、とそのぐらいは思い出せるのだが、そういう場合に限って過去の自分といまを分断して考える癖ができてしまったらしく、ガラス越しの痛みと感情ばかりで今ひとつ自画像として纏めることができない。

過去といまの自分を割り切って別物と考えるのは人生において大いに役立つ技術ではあったのだけど、その気持ち悪さと整合性のなさにはこれはこれで悩まされる。「昔は昔でまあまあ辛かったんじゃない?」なんてお気楽なピントを合わせていられるうちは華だろうが、この先弥が上にも辛いことが待ち受けていたとして、耐えられる自信がないのが正直な話。

Depressionやnostalgiaとは少し違う。どちらかというとmelancholy。問題はこの憂鬱の肯定していて、なおかつ活路が見いだせない点だろう。

憂鬱の肯定として好きなのはスピノザの”ありあまった時間を人間は嫌なことを考えるために使うのである”だけど、処方箋を用意できないんでは意味がないことにも気づいて欲しかった。個の自己保存衝動としての憂鬱はコナトゥスと正反対の位置付けにいながら同じ機能をしているのがなんとも皮肉で、要するに憂鬱それが処方箋なんていうエスプリジョークをかませなくもないんだけど、何に対する?まで疑問が発展すると『ありあまった時間に対する』とウロボロス式お手上げ状態だ。

とここまでがやおいな雑談でした。終点が見えないまま文を書くって怖いな。