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楽しくないよ / 過去に縛られる / 好き、嫌い?

 

 あくがれという言葉がある。古語単語で「魂が抜け出す」だとか「ふらふら彷徨う」だとかそういう意味。発展して「心を奪われる、恋をする」みたいな意味になる。単純にその言葉だけでは、プラスなのかマイナスなのかわからない。
このごろ、あくがれている。ふらふらと彷徨うたび、それが自分にとってプラスなのかマイナスなのかわからない。頭の悪い大学生なんて、みんなそんなもんなんだけど。


 僕は人生で少なくとも二度死んでいる。一度目は完全に家庭が終わった日。二つ目は両親の不仲が改善された日。「存在意義」という単語に縛られる20すぎなんてあまりに自立していなくて嫌だけど、どうやら根底はそうであるらしい。僕は自分は二度死んで、たった今の三度目も存在意義の壁にぶつかっている。保身にはしってしまう心は、どうやら傷つけたくないかららしい。
 それにちなんだ話だが、従兄弟の結婚式があって社会人の四人(従兄弟)と三次会をした。彼らは十分大人で、「おまんま食うためにはいろいろ必要だ」と僕に言った。僕は幼すぎてピンとこない、人生の価値だとか、良く生きたいだとか。みんなわからないまま蓋をしているのに、僕だけわかるのは無理なのだろうか。「詩人になる、さもなくば何にもなりたくない」と言った人がいる。僕もそうでありたい。だが「両親にしっかりした姿を見せるのが親孝行」と言われてこれが応えた。ああ…確かにと。やっと話が繋がっただろうか、ごめんね、理路整然と文書けなくて。そうして、僕は過去に縛られているのではなくて、未来に縛られているのだとようやく気づきました。


 江國香織に「柔らかなレタス」というエッセイがある。僕は自分で書けそうな文章は読む気になれないんだけど、このエッセイは絶品である、世界が僕とは違う。ああ、この人はなるべくしてなったんだろうな、物書きに。
 江國さんはどうしてもやる気がおきないときに、別な意味のないことをあえて行う「ふり」をするのだという(文章では豚肉を煮込むだった、どうでもいいけどこんなとき豚肉を煮込むという発想がでてくる江國さんに、僕は心洗われる)。そうすると「こんなことよりあれをしないと!」と焦りがでてきて、満を持してエイヤッとそれに取り掛かれる。そのあとに文章はこう続く。

 

 ところで、エッセイを書き始めるときも、勿論エイヤッ、は要る。でも、書くことに関するそれは、電話や掃除や校訂刷りをよむときのそれと、性質が全然違う。スイッチが入って止まらなくなる。などということがない点は校訂刷りのときと同じなのだけれど、(たぶん、スイッチのないエイヤッなのだ。スイッチがないから、何度でも何度でも奮い起さなくてはならない)、困ったことに、書くためのエイヤッは細切れの時間に見向きもしない。だから「ふり」など通用しない。それどころか、一度他のことをする「ふり」などしたら、逃げ去ったきり、当分帰ってきてはくれない。

ーーーーーーー「エイヤッ」より

 

 僕はこの文章に随分助けられた。ああ、文章の天才の江國さんですら、こうなのかと。何度も何度も奮い立たせて、それでもなお、好きなのかと。僕にとって「好き」は「完成系が感じられてしまうこと」なのだとよく思う。それは決して楽しいとか面白いとか、そういうことばかりじゃなくて、イデアがくっきり頭に浮かびすぎて、それから離れられなくなる。したくてたまらないんじゃなくて、しないと生きていけなくなる。この話は誰かに聞いてもらいたかっただけ。


秋も深まって、冷えてきたけどみんなお元気ですか。頑張れとか生きろとも僕は言えないんだけど、みんなが元気だと僕は嬉しいです。じゃあ、また今度。

 

ps.スターとブクマを戻しました、やっぱりないのも寂しくて。つける人がいるともおもえないんだけど、一応。好きにつけてくれ、僕はたぶんあなたたちの文章を楽しみに見てるはずだ。