八月

みなさんこんにちは。お久しぶりです。八月が終わって九月に入るなら、1ヶ月に一度と決めていた更新をする機会に恵まれたということです。

早い夏でした。駅から五分歩くだけでベタつき、それが全然麗しくないタイプの季節感だったので、やはり湿度というのはよくありません。八月の初旬は七十二候によると土潤溽暑(土潤いて溽し暑し)というらしいです。たしかになあと思う反面、コンクリートが熱されている現代と古の漢民族で同じセンスを持てているかは疑問です。

セプテンバーという単語に、季節感を感じないのは僕だけでしょうか。ジューンとか、オクトーバーとか言われると、語感と相まってしっかりと季節の感覚が肌を触りますが、セプテンバーにはあまり効かない化学薬品とか、よくわからないキャラクターのBスキルとかそういう無機質な雰囲気があります。「船を出すなら九月」という中島みゆきの歌にもいまいちピンとこなかった僕です、もともと九月というものと縁がないのかもしれません。そういえば、誕生月が九月の人にもあまり出会ったことがない気がします。乙女座と天秤座ってかっこよくないですか?僕も乙女座のイケメンに生まれたかったですね。

『山の音』を最近読みました。川端の文章に惹かれたことは今までなかったはずなのですが(母が大好きなのでよく首を傾げていました)、この小説は何度も読み返すほどによかったです。何が面白いとかそういうわけではないですが、仕組みのわからないトリックアートを何度も眺めてしまう感覚に似ています。別に読みたいわけではないけれど、この一週間ほど暇があれば手に取ってしまいました。

山の音 (角川文庫)

山の音 (角川文庫)

 

 

自分には人に言っても絶対に馬鹿にされる類の、信じて疑わないことがいくつかあり、それは意外にも自分らしさに拍車をかけているなあと、最近よく思います。別にそれを持っていることは自分らしさとは全く関係ないのですが、はたから一見すると目立つし、言動として自分を動かしたりすることも多いので面白いです。日本語を話しているのが自分らしさではないけれど、自分を紹介するときには絶対に欠かせないパーソナリティである……それに近いかもしれません。

ノウテンキで、バカ

 

僕にだって、文章を書かずにはいられず、今すぐにペンとルーズリーフが欲しい瞬間が確かに存在していて、それは幸福な時間にとても関係している。よくお決まりのカフェで夕方から夜ギリギリまでを過ごす。その時間は本当によく出来ている。大体の時間の僕は参考書を読み、読書をし、カフェインを摂る。僕はアルコールよりカフェインでエンドルフィンが出るみたいだ、遺伝子に感謝しなくてはならない。

 

深い悲しみや、苦しみを文章に書く人はすごい。そういう意味で、僕はノウテンキでバカなんだとよく思う。幸せなときに書きたくなる。悲しみにいてはぼうっとしてしまう。たまに、というか大抵のすごい人たちがそうであるが、マイナスにピリピリと神経が張って全てのアンテナがぶわあと広がって、それを文章に起こせる起こさずにはいられない人たちがいるようだ。そういうのは感情が読み手に波みたいに押し寄せてくる。すっごいと夜を明かしてしまうやつだ。羨ましい。

僕にだってそりゃたまにはそういう感情に陥るときもある。けれど書こうとするとうまくいかない。僕は悲しいというやつと相性が悪いのだ。ノウテンキで、バカだから。

 

僕が書けるものといえば少しの日常くらいのものだ。本を読んでいると海みたいな幸せに哀しみが流されていくその心象、大切な世界の誰かが今日も幸せだったかなと願えること、それそのものの幸福、調和がとれて余計な音がない1時間。僕はいたって普通の人間すぎて、普通のことがギフトなのだと思う。それだけ。おやすみなさい。