ノウテンキで、バカ

 

僕にだって、文章を書かずにはいられず、今すぐにペンとルーズリーフが欲しい瞬間が確かに存在していて、それは幸福な時間にとても関係している。よくお決まりのカフェで夕方から夜ギリギリまでを過ごす。その時間は本当によく出来ている。大体の時間の僕は参考書を読み、読書をし、カフェインを摂る。僕はアルコールよりカフェインでエンドルフィンが出るみたいだ、遺伝子に感謝しなくてはならない。

 

深い悲しみや、苦しみを文章に書く人はすごい。そういう意味で、僕はノウテンキでバカなんだとよく思う。幸せなときに書きたくなる。悲しみにいてはぼうっとしてしまう。たまに、というか大抵のすごい人たちがそうであるが、マイナスにピリピリと神経が張って全てのアンテナがぶわあと広がって、それを文章に起こせる起こさずにはいられない人たちがいるようだ。そういうのは感情が読み手に波みたいに押し寄せてくる。すっごいと夜を明かしてしまうやつだ。羨ましい。

僕にだってそりゃたまにはそういう感情に陥るときもある。けれど書こうとするとうまくいかない。僕は悲しいというやつと相性が悪いのだ。ノウテンキで、バカだから。

 

僕が書けるものといえば少しの日常くらいのものだ。本を読んでいると海みたいな幸せに哀しみが流されていくその心象、大切な世界の誰かが今日も幸せだったかなと願えること、それそのものの幸福、調和がとれて余計な音がない1時間。僕はいたって普通の人間すぎて、普通のことがギフトなのだと思う。それだけ。おやすみなさい。

 

メイド ア メイ

 

5月の鬱々しい砂漠は、緑ばかりだ。この季節の僕は知らずのうちに全てを投げ出したがる。理由は本当にわからない。無理に理由をつけてみても、(4月の新生活のアドレナリンが切れて疲れが押し寄せるなど)それはどうも掴み切れていない、現象を言葉にできていない。

簡略化やコモンセンスの織りなす嘘が、自分を傷つけていると気がついたことがある。現象に正確な言葉を当てると、それと同時に自分がはっきりと現れる。ぼんやりと言葉を並べていると、自分の心までもぼんやりしてきてしまって、取り返しのつかないような悲しさに行き場を失う。

夜の3時の公園では人っ子一人いないのに、誰もが夏を待ちわびいて、誰かを絶えず待っている。花火が打ち上がるのを待つ、それを愛するのと同じ理由で。待っていて、それが訪れるとわかっている時間は限りなく幸福に近い色をしている。鳴いていた虫は全て姿がなく、どこからともなく聴こえてくるそれに耳を澄ませるしかない。古びたベンチの座り心地は悪い。緑色のペンキが禿げ、時間は遡らないと教えている。かつて恋人たちが座り、語り合ったベンチに僕も座る。僕自身の幸せをどうやって願えばいいのかを、ずっと探している。

こういう風に、準備はできていくのだと思う。

6月1日はそうやって夜を過ごし、すこし時間が経つと自然に息がつけた。結局5月の鬱々には理由をつけられないまま。