絶対的説明の文学

 

 

 日本文学というものは絶対的説明の文学なのだろう。この考えは僕が好んで読んできた西洋文学、特に20世紀の大陸文学に洗練された省略が見られるからかもしれない。それと比較するとどうしても日本文学というものは説明というものに重きが置かれる気がしてしまう。
 この考えは、否定材料がたくさんある。哲学において、というか普通の一般常識的にも、西洋は理論それ以外は感覚である。日本の方が感覚的であるべきという固定観念がどうしても処理できず困っている。

 フランソワーズ・サガンが好きだ。彼女は本当に感覚の天才である。無駄な風景描写(説明)がない。なんというか、とことんに軽い。軽い上に、しっとりと味わえて、長いこと消えない。江國香織にすこし近い。昔どっかで、江國香織の文を「肉食だ」と表現した人がいた気がする。(確か解説だったような)それに対して僕は『彼女の文が肉なのではなく、あなたの感性が肉食なのだ』と一人憤っていた記憶がある。サガンも同じで、この手の文を『肉』と表すこと自体、あまりにセンスがないというか、自分に酔いすぎだろう。では君ならなんと表す?と問われると……無難に水だなあ。あまりにも水が新鮮だから肉に感じるのであって、本質は水だろうな。あの、川の上流で雪解け水を飲む感覚ですよ、あれあれ。

 無駄な希望がないことに関する評価というのは、なかなか難しい。サガン江國香織は無駄な希望を書かない。これは高度に発展した文学性と見ていいのだろうか。ただのオシャレだろということもできるし、そのオシャレが文学というのだとも言える。逆に希望を安易に持たせるアホさ加減を馬鹿にするのも難しい。ファンキー加藤の曲にちょっとしたアホさを感じるのは(ある程度哲学をした人間であれば)当然として、それが間違っているかと言われると、返答に困るってやつだ。
 新海誠がヲタクに強烈に愛されていたのは、無駄な希望を書かなかったからである。ある意味、そうすることでわかりやすく芸術性を維持していたのだ。『新海誠は普通のアニメとはチゲ〜んだぞ、その違うところに気づける俺ってすごいんだぞ』てな感じである。
 今回はその希望を書いた。意見はいろいろあるだろうが、『無駄な希望を書かなかった人が敢えて書いた』ので、それは汲み取ってやっても良いだろうと思う。けどもかなり悲しんだヲタクたちがいる。僕は心が寛大ななんでも許しちゃうヲタクなので、いや〜よかったで済んでいる。それだけのこと。そして僕はサガンみたいな、不幸も幸福も小さじ一杯みたいなものを書きたいと思って日々を生きている。その小さじ一杯が、人の一生に抱え切れる感情全部だったりする気がしているからだ。

 すげえ話が脱線したけど、日本は絶対的に説明の文学で、僕はそれからまだ抜け出せていなくて、サガンみたいに感覚的に優れている人ってすごいなあって話です。ほんとに脱線したな。なにが言いたかったんだ。でもなんかすっきりしたな。