やんわりとした解答
夜中によくわからない発想がグチャグチャと出てきたのでなすがままにつぶやいていたんですが、いまから頑張って解読してみたいと思います。
なぜわたしたちはどうしようもない停滞に内在して、外延するexistenceに縛られているのだろう。
— okinakya (@okinakya) 2017年7月12日
我々は個々人として実存しているが、それは世界に対する回答とはならない。どうしょうもない停滞について、世界に内在している私たちは外延する実存に縛られているといえる。
実存主義は世界の否定であり、私たちの現実社会に即したものとはなっていない。単独者(周囲の社会に負うものなく、全く自由な存在)は存在が難しくなっており、そんなものはいないと私たちは知ってしまった。
— okinakya (@okinakya) 2017年7月12日
本質的な偶然や実存の不定性を否定するわけではなく、私たちはそれを知ったうえでなお『必然的に』世界に存在しなくてはいけなくなってしまったのである。
— okinakya (@okinakya) 2017年7月12日
私たちはすでに構造を理解しきった気でおり、それは正否に関わらず各々にとっての世界である。世界は変化するが否定できない。
— okinakya (@okinakya) 2017年7月12日
世界がすでにどうしようもないということが分かりきっている恐怖……俯瞰恐怖はこのポスト構造主義としての1面をもつが問題はそこではなく、それでもなお私たちは存在しなくてはならない、という点にある。
— okinakya (@okinakya) 2017年7月12日
つぶやいていたときはそこまで発想が飛躍しないけれど、これはどちらかというとポスト構造主義に近い。構造を理解してしまった我々に待っていたのは「どうしようもなく停滞」した世界である。世界は変わらないし、変えられない。そして我々はすでにそれを理解してしまっている。
実存主義についても少々暴論だ。まず外延する実存(他人)に縛られることをサルトルは認めている。認めたうえで自己を新たな場所へ縛りなおすことができるのが人間のあり方と述べられているので、実際問題、実存主義は「どうしようもない停滞に内在」する事、それ自体がありえない。
ただし、サルトルの時代と現代で大きく違うのが、世界の大きさである。明らかに現在のほうが「手に取れる世界」が広がっている。「どうしようもない停滞に内在している」という感覚は主にここからきている。
ふと考えてみるとこの視点は「セカイ系」にそっくりである。急にセカイのために戦う事になるあれ。「どうしようもない停滞」はわりとセカイ系のテンプレートな設定だし、「無力な私たちと世界」という構造も似ている。私たち現代人は、だれもが俯瞰恐怖を持っているのだろう、だからこそアニメや漫画では、恐怖を具体的にして敵とし、主人公に感情移入してしまうのかもしれない。
ウーーーーーン、今日はここまでにしよ、なんにも解決してないけども。