メイド ア メイ

 

5月の鬱々しい砂漠は、緑ばかりだ。この季節の僕は知らずのうちに全てを投げ出したがる。理由は本当にわからない。無理に理由をつけてみても、(4月の新生活のアドレナリンが切れて疲れが押し寄せるなど)それはどうも掴み切れていない、現象を言葉にできていない。

簡略化やコモンセンスの織りなす嘘が、自分を傷つけていると気がついたことがある。現象に正確な言葉を当てると、それと同時に自分がはっきりと現れる。ぼんやりと言葉を並べていると、自分の心までもぼんやりしてきてしまって、取り返しのつかないような悲しさに行き場を失う。

夜の3時の公園では人っ子一人いないのに、誰もが夏を待ちわびいて、誰かを絶えず待っている。花火が打ち上がるのを待つ、それを愛するのと同じ理由で。待っていて、それが訪れるとわかっている時間は限りなく幸福に近い色をしている。鳴いていた虫は全て姿がなく、どこからともなく聴こえてくるそれに耳を澄ませるしかない。古びたベンチの座り心地は悪い。緑色のペンキが禿げ、時間は遡らないと教えている。かつて恋人たちが座り、語り合ったベンチに僕も座る。僕自身の幸せをどうやって願えばいいのかを、ずっと探している。

こういう風に、準備はできていくのだと思う。

6月1日はそうやって夜を過ごし、すこし時間が経つと自然に息がつけた。結局5月の鬱々には理由をつけられないまま。