サヨナラだけが人生だ

 

新年を祝い親戚一同が会した。この日は各地にいる人らも全員帰省して出席することになっている。
勧酒での挨拶は最年長である祖父が行う。

『この盃をうけてくれ どうぞなみなみ注いでおくれ 花に嵐の例えもあるぞ サヨナラだけが人生だ』
では、乾杯!

明るい雰囲気だった、好きに酒を飲み、次々に人と挨拶を交わし、行ったり来たり。


藹々(あいあい)と 人をし 空気にたらしめて 与うるだけの 皆帰り酒  ーーおきなきゃ

 

雀卓を囲めるようになった僕は彼方此方と卓にお呼ばれした。若者の中では、一番年下なのだ。喧騒と楽しげな雰囲気と刹那性と。楽しいというものは刹那的だ。『長期的自己実現の中に福楽はない。』彼女の言葉に耳が痛くなる。祖父が引用した昭和の文豪と平成の萌え漫画。二つ言葉は見事に似た方法で物の本質を哀求していて、面白い。

 

僕が一番の若さといっても世代交代の波が確かに来ていて、新しく結婚した夫妻と赤ん坊が幸せそうにすみっこのテーブルで存在していた。存在していたとしかいいようのない、完成された幸せの空間であった。


あれは、『長期的自己実現』ではないのか。『サヨナラだけが人生』、本当にそうか。あの光景は、ヒトが紡いできた悠久の幸せ、その一部なのではないのか。ぼくはわからなくなる。

 

井伏鱒二は、もっと言えば于武陵はそういうつもりでこの詩を作ったわけではないのだろう。
花に嵐の例えどおり、幸せは不意に壊れてなくなってしまう、だからこそ今を生きようではないか。そんな詩だ。『長期的自己実現』を否定してはいないのだ。脆く、何時しか叶わず壊れると言っているだけで。

 

あの赤ん坊は、はたして壊れるのだろうか。例えば今、3メートルの高さから落としたら、壊れるだろう。存在としては、大変儚い。けれど男と、女と、赤ん坊。その光景は、なぜだかわからないほどに永遠性がある。壊れそうにない。完成された幸せを感じる。


儚い、だからこそ、と言葉を続けてみよう。だからこそ、この儚い幸せを、夫婦はどんなことをしてでも守るのだろう。若干30前後の二人、がたいが良くスーツを着ていてその割目は大きく優しげである男と、特別綺麗ではなく化粧もないが不思議と美しい女。二人は自らを粉にして、この先を行くのだろう。

 

永遠性は心に宿る、そんなロマンチストなセリフは口が裂けても言えないけれど、あの夫婦の幸せは、少なくとも酔いより長く続きそうだった。