結局、ラヴレターなんて書けない。

結局、ラヴレターなんて書けない。


 結局、ラヴレターなんて書けないのは、感情なんて留まりはしないから。どうして彼女が好きだったのか、いまでも好きなのか、あとは思い出とか。書こうとして書こうとして、結局ずっと失敗してしまう。そもそも、いろんな好きがあって、それを文にするのは不可能だろう。円グラフにしたほうがまだわかりやすい。
 難しい。難しさは宙を舞って、僕はそれを眺めている。
 今まで僕は、感情というのは記憶や人に留まるものだと信じていたけど、それは違ったようだ。そして、そうやって考えていくと感情というのはどこに帰属するのかさえも、僕は定かにできていない。物体に属するにしてはあまりにぎこちなく、精神に属するにしては確固としている。
 

 彼女に会ったら、いつも通りに話すだろう。夢をあきらめずにいる彼女は、おそらく方法を間違えていて、僕はいくつか助言をする。たぶん、僕がいたほうがうまくやる。いままでだってそうだったし、誰よりも彼女を分かっている自信はないけど、誰よりも彼女を見てきたのは本当なんだから。
 

 感情は、自分が主体となって他物に帰結していく(主体性こそが真理である)。この事実だけは変えられないように感じる。自分が発したものを感情と名付けているからだ。しかしながら他物がないと感情は発し得ないので、ほかのものに帰結していくはずであり、つまり、全体としての自分が主体となって、”目の前に移る他物”に、帰結していく。

 結局、ラヴレターなんて書けないのは、帰結するのは紙じゃなくて彼女だから。やっぱり今日電話でもしてみよう。彼女の目の前でなら、言いたいことも浮かぶだろう。ラヴレターなんて嘘っぱちなのだ、だって、そこに彼女はいないんだから。
 

 

 

p.s ドロドロの夏本番を迎え、皆様元気にお過ごしでしょうか。というか、元気に過ごしてください。

やんわりとした解答

夜中によくわからない発想がグチャグチャと出てきたのでなすがままにつぶやいていたんですが、いまから頑張って解読してみたいと思います。

 

 

 

 つぶやいていたときはそこまで発想が飛躍しないけれど、これはどちらかというとポスト構造主義に近い。構造を理解してしまった我々に待っていたのは「どうしようもなく停滞」した世界である。世界は変わらないし、変えられない。そして我々はすでにそれを理解してしまっている。

 実存主義についても少々暴論だ。まず外延する実存(他人)に縛られることをサルトルは認めている。認めたうえで自己を新たな場所へ縛りなおすことができるのが人間のあり方と述べられているので、実際問題、実存主義は「どうしようもない停滞に内在」する事、それ自体がありえない。

 ただし、サルトルの時代と現代で大きく違うのが、世界の大きさである。明らかに現在のほうが「手に取れる世界」が広がっている。「どうしようもない停滞に内在している」という感覚は主にここからきている。

 ふと考えてみるとこの視点は「セカイ系」にそっくりである。急にセカイのために戦う事になるあれ。「どうしようもない停滞」はわりとセカイ系のテンプレートな設定だし、「無力な私たちと世界」という構造も似ている。私たち現代人は、だれもが俯瞰恐怖を持っているのだろう、だからこそアニメや漫画では、恐怖を具体的にして敵とし、主人公に感情移入してしまうのかもしれない。

 

 ウーーーーーン、今日はここまでにしよ、なんにも解決してないけども。