キルラキルというアニメの、隠れた哲学性について。

 

キルラキルというアニメのすごさついて、書こうと思う。

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 『キルラキル』 (KILL la KILL) は、2013年10月から2014年3月までMBS・TBS・CBCBS-TBS『アニメイズム』B2にて放送された日本のテレビアニメ。全24話 + テレビ未放送1話。 TRIGGERにとって本作品がテレビアニメ部門で初の元請作品となる。

 

 かつて、ガイナックスで『天元突破グレンラガン』を制作した主要スタッフがTRIGGERとして独立した後、企画から立ち上げた初のテレビアニメシリーズ作品。そういった経緯からも実質上は同作品のスタッフによるオリジナル新作であり、キャストには同作品に出演していたメンバーも多く含まれている。

 

 キャッチコピーは「キルカ、キラレルカ」。基本的には荒んだ世界を舞台とした学園バトルものであるが、セル画制作の全盛期風の作画や背景などを多用し、着た人間に人知を超えた力を与える制服や自我を持った制服が登場するという、ファンタジー要素も盛り込まれている。

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語るなら前作「天元突破グレンラガン」も片隅に入れなければならないだろうか、ちょうどニコニコで無料配信されているし。

グレンラガンとキルラキルの表すところは「おしゃれな昭和感」だろう。絵もセル画チックなものが多く使用されキルラキルの背景に至っては絵の具というなんとも古風な印象を受ける。作画がいい上枚数が恐ろしく多く、ぬるぬる、というかゴリゴリ動く。この時点で「おっほ~~」ってな具合なわけである。

またグレンラガンはロボットを主軸に話が展開される。
ロボットというのはどうしてこう、ソソるのだろうか。昭和アニメを支えた鉄人28号や、マジンガーzゲッターロボには始まりガンダムエヴァンゲリオンエウレカセブン、etc…とオトコノコという存在はロボットに弱いのである。

ここでぼくがロボットアニメについて100000字ほど語れば、例えば勧善懲悪を基調とした昭和ロボットからガンダムのような軍事色が色濃くでる「SFロボット」世代への転換、マクロスによる宇宙戦艦ヤマトと「美少女」の融合、バブル崩壊後の日本を象徴するエヴァの圧倒的不安感、それはキリがなくなるのでやめにしておこう。

 

いま問題であるのはグレンラガンはもともと日本人男性向けアニメの根幹としてある「合体ロボ」を用いて燃える展開を打ち出す昭和オマージュと、平成の完成度を併せ持って生まれた名作、ということ。

仁義なき戦い」に日曜朝8時からの戦隊ロボットを加えて少年アニメにしました、そんな感覚に等しいかもしれない。タイトルの「天元」の文字通りど真ん中の王道ストーリーを描いて平成の閉塞感を打ち壊し、アニメ劇場版共に大成功を収めた。

 


さて、グレンラガンを見事な大円団で終了させて、次の作品を作ろうというと独立したスタッフたち。
彼らが次の作品を作る上で最も障害となったのはなにを隠そう前作グレンラガンである。こいつの出来が良すぎるのだ。完全燃焼、我が人生に一片の悔いなしといった圧倒的スケール、存在感、燃え、現代への激励、昭和のオマージュを終えてしまった彼らは次に製作するアニメがこれを真正面から飛び越えるのは難しいと判断した。また飛び越えたところで「二番煎じ」は拭えない。

そこで彼らは「グレンラガンを横にいなしつつ、おしゃれな昭和感とアツさは曲げない、だがなにか1つ違うスパイスを加える」場所にアニメを着地させることにした。そうしてできたのが「キルラキル」である。

今作キルラキルはセーラー服の少女纏流子が亡き父の死を解明するため生徒会長に喧嘩を売るところからストーリーがはじまる。生徒会長や学園生、生徒会四天王は「極制服」と呼ばれる自らを強化する服を着て流子の前に立ちはだかる。纏流子も亡き父が残した「鮮血」なるセーラー服を変身させて彼らと対決しながら、その先に待つ父の死の真相と、潜む陰謀に足を踏み入れていくというものだ。

 

ぼくがまず感心したのは「セーラー服を変身させて戦う」発想である。これは間違いなく「美少女戦士セーラームーン」をはじめとした美少女シリーズの踏襲であろう。しかもそこには「アツさ」がプラスされているのだ。うまく昭和をオマージュしつつ自らのものにしている。

さらに前作の「合体ロボ」を「変身」というこれまた古臭いACTに切り替えて二番煎じを見事にいなした。戦隊シリーズが美少女シリーズになり『朝の8時からやってる「もう一方」が今回なのね』という感覚を見事に視聴者に与えている。

ここがキルラキルの前提。前作までもひとつのサブジェクトとしてうまく取り入れることで「前作と比べる」というマイナスの要素を感じさせないようにし、作品としての本質そのものだけで勝負をできるような状態に持って行った。

 

それだけでもぼくは十分すごいと思った。並大抵の発想力ではない。だがこのアニメの本当の面白さはここではないのだ。
前作が燃え100%を使い切ったスタッフたちが次になにをしでかしたかというと、ほんの少しだけ燃えを下げて、気づかれないようにこっそりと物語に深みを出したのである。

 

 キルラキルのキャッチコピー「キルカ キラレルカ」を一見すると殺るか殺られるかに近いイメージを持つだろう。だが僕たち文系にとって「着る」という言葉はある著名な日本人哲学者を思い起こさせる。

鷲田清一。1989年の『モードの迷宮』『ファッションという装置』からはじまる衣服と身体論の本を読んだ方も多いかもしれない。「身体を第1の衣服」とみなす鷲田の哲学と第3話の流子がセーラー服「鮮血」に言ったセリフは絶妙にマッチしている。

「やっとわかったよ…裸になればいいんだ…神衣を着るってことはお前と一体になるってこと!お前がわたしの素肌になるってこと!それがおまえを着こなすってこと!そうだろ!鮮血!」ーーー纏流子

 

鷲田の哲学だけに関わらず「衣服」というものは哲学域の対象になりやすい。例えばマーシャルマクルーハンのメディア論である。彼はメディアを「人体を拡張するもの」と位置づけて論を起こした。ハンマーは拳を、コンピュータは脳を、自動車は足を拡張させたものだ、という風に。さてこれでいくと衣服はどういう位置づけをするのだろうか、「社会性な自己規定を行う道具」だろうか、キルラキルにおいては「自己を強化する道具」か。

このような拡張人体の発展と同時に現代社会が抱えた「どこまでがわたしで、どこからがわたしでないのか」というアイデンティティー問題のクエスチョンを、キルラキルは気づかれないようにこっそりと含ませている。

 

もちろんアニメと現実は別物だ。素肌のように服を着る何てことも、制服を着るだけで超人的な力を発揮することもないだろう。

だがもはや現実でも同じようなことがおきはじめている。記憶に新しいのは2008年北京オリンピックでの「レーザーレーサー」だろう。脱着に20分を要すると言われるこの水着は瞬く間に水泳業界を席巻し、「これなくして金メダルはあり得ない」とまで言わしめた。さて彼ら水泳選手は水着を「キテ」いたのかそれとも「キラレテ」いたのか。

 

衣服の身体論をアニメに見いだす行為は、今に始まったことではない。そして実に面白いことにその代表として注目されたのは「ロボットアニメ」であるエヴァンゲリオンである。
エヴァでは神経接続により機体の痛みは搭乗者の痛みとしてそのままシンクロしてしまう。これは鷲田清一の「身体は第1の衣服である」という理論と奇妙な一致を見せないだろうか。エヴァを衣服と身体論の観点からと解くと、「身体は第1の衣服である」という鷲田清一が提案したアンサーを、エヴァンゲリオンという汎用人型決戦兵器として投影することにより表している、と言えないだろうか。

 

キルラキルはそうしたアニメに置ける身体と衣服論を少しだけ現実に近い形で表現している。もちろん、普通にこのアニメを見てもそんな小難しい言葉は一切出てこないし、燃えて、作画すげえってなって感動して、終わりだろう。
しかし、「グレンラガン」と決定的に違う、このアニメ独自のスパイスとなっている要素は、そういった哲学域の諸問題を暗然と示唆している。